朝食は部屋でごそごそと。 グラナダの野菜は見た目が立派で、ちょっと期待しましたが、味はおおざっぱなようです。 おそらく、ふだん食べているアンデス産の野菜がおいしすぎるのでしょう…
ライムの酸味とトウガラシの香味が、そろそろ懐かしくなってきました。
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アルバイシンの店先の野菜。
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本日も文句なしの快晴! この青空、冬のリマに一か月分ほど輸入したいです。
(なんて言ってたら、翌2012年は軽いエル・ニーニョ現象のため、六月現在、晴れの日がたいへん多く… スペインからの出荷だけあって、一年遅れで届いたかな〜)
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午前の日を浴びるダーロ川沿いのアマポーラ。
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さて本日は、Manuel de Fallaの旧宅を訪問。
1876年カディス生まれの作曲家 Manuel de Falla(以下マヌエル先生とします)は…
背丈が150pくらいといいますからたいへん小柄で、神経症的なきれい好きで、ガチガチのカトリックで、心気症に苦しみ、生涯結婚はせず、ここグラナダでも信心深い妹とともに、近所の騒音にぴりぴりしつつも、極力静謐に暮らそうとしていた……そうです。
かなりこじんまりとしたお人柄だったようですね、そういえば作品も、小品ほど光るような気がします。 身長150pに共感した…わけでもないですが、そのこじんまり度が、どうにも気になる芸術家なのです。
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マヌエル先生のグラナダでの旧居、Carmen del Ave Maria
この carmen は、女性名のカルメンとは関係ありません。 アラビア語の karm (葡萄の木)から来た言葉だそうです。
もともとグラナダ郊外の丘に作られた、塀に囲まれ外からは中のようすを窺い知れない、噴泉と果樹園のある邸宅(つまりイスラムの信徒に約束された天国を、地上に移したかのような小世界)をあらわしたそうです。 まさに理想の家です…
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Carmen del Ave Mariaの外観。 アランブラ宮殿が建つ丘の南斜面、というすばらしい立地です。
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マヌエル先生のグラナダ生活は、1920年から始まりました。
・1920年(44歳) グラナダへ移住。 作曲を中心とした規則正しい生活を送るとともに、このカルメンはグラナダの文化サロン的な意味を持つようになり、詩人Garcia Lorcaをはじめとする多くの人々がこの家に足しげく通った、とのこと。
・1922年(46歳) Garcia Lorcaに協力し、Concurso de Cante Jondo開催。 ・1931年(55歳) このころより、体調が著しく悪化。
・1936年(60歳) スペイン内戦勃発。Garcia Lorcaの殺害に強い衝撃を受ける。
・1939年(63歳) 演奏会指揮の招待を受けアルゼンチンへ、その機会を利用してそのまま彼地に留まる。 ・1946年(70歳になる9日前) アルゼンチンにて死去。
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とても簡素な台所。
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ミルクパンや茶漉しその他、生活感がすばらしいです。 まるで今も誰かが暮らしているよう。
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質素な、でも感じのいいグラナダの茶器。
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室内から玄関を見たところ。
右奥のテラコッタ色の建物は、1910年建設のHotel Alhambra Palace。 かつてはこのホテルにグラナダの文化人が集い、詩人Garcia Lorcaもここで初めて聴衆を前に詩を朗読したのだとか。…今となっては日本の団体さん御用達、という印象が強いホテルですけれど。
私も1983年にツアーで数泊しました。 擬似アランブラなタイルが多用されているほかは、ただの古びた宿でしたが、今はきっときれいになっているのでしょうね。
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案内してくれるガイドさん(若い女の子二人)が、どうもへんなスペイン語を話します。 特に複数形がラテン語化しているような…? と思ったら、それもそのはず、イタリアの学生たちでした。 ブレシアの大学で観光を専攻していて、今はグラナダで研修中なんだそうです。
話すことがほとんどスペイン語になってないけど、かわいいから許す!
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しばしば具合がわるかったマヌエル先生のための、特製車椅子。
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マヌエル先生の作品に想を得た、四枚の飾り皿。 作者は、やはりスペインの作曲家で、陶芸もよくしたという Eduardo Lopez-Chavarri
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特にこの「スペインの庭の夜」を題材にしたお皿、いいな。 夜空の星々、糸杉、水盤から吹き上がる水。先日の夜のヘネラリフェ離宮のようです。 あ、でもよく見るとロバも二頭います。
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廊下には、マヌエル先生のパナマ帽。 額に入ったタイル(下絵)には、「この通りでかつて暮らしたテオフィル・ゴーティエに捧げる」とあります。
1922年、ガルシア・ロルカやギター奏者のアンドレス・セゴビア、その他の人々が発起人となって作った、ゴーティエのグラナダ滞在(1840年・45年)記念プレートの下絵だそうです。 プレート本体はすでに失われましたが、物持ちの良いマヌエル先生のおかげで下絵が残ったわけですね。
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同じ廊下で、妙なものに遭遇。 歌麿の「絵兄弟 鵺退治」… マヌエル先生、し、しぶいご趣味…
左上の小さい「駒絵」は、「源三位頼政の鵺退治」の図。 そして手前の「本絵」では、子供がヌエならぬネズちゃんを取り押さえている、というもの。
絵による見立て遊びらしいのですが、マヌエル先生はなんの絵と想像なさっていたのでしょうね。 ガイド嬢たちも、「ウタマロ」ということしか知らないようでした。
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マヌエル先生の簡素な寝室の、さまざまな薬や身だしなみの道具が置かれた棚。 たいへん神経質だったマヌエル先生は、身だしなみに毎日数時間を費やした、と言われているそうです。
メキシコシティにある、フリーダ・カーロの晩年の家でも思いましたが、没後、寝室のような場所まで公開されてしまうとは、著名人はたいへんですね… 見学するほうも、どこか居心地わるさがあります。なので寝室は、小物だけご紹介することにします。
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妹のMaria del Carmenさんの寝室には、マヌエル先生が9歳のときの、かわいらしい写真が飾ってあります。 故郷のカディスのカーニバルで、マスケット兵に扮したときのものだそうです。
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二階のピアノ室。
ぼろぼろのソファカバーが目をひきます。 とても倹約で質素な暮らしぶりだったようです。ヨーロッパって本質的にそういうところのような気もしますが。 (別に猫がいたわけではないようですね… 猫がいると、倹約しようがしまいがソファはこうなりますが!)
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マヌエル先生のピアノ!
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ショパンが使ったので有名な、フランスのPLEYEL社のピアノ。 ショパンを愛したマヌエル先生ならではの選択。
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「三角帽子」の舞台衣装を描いた、1920年の石版画。 この家は、よく見ると小さな宝物でいっぱいなのですが、これもまたピカソがマヌエル先生に進呈したものだそうです。(私はピカソってぜんぜんわかりませんが、それはさておき…)
…いま気づいたんですけど、左端のクリーム色のは扇風機ですよね! 調べてみると、19世紀末に世界初の扇風機を作った、米国Westinghouse社の製品のようです。おっしゃれ!
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ピアノとソファと書きもの机でいっぱいいっぱいの、かなり狭い部屋。 でもここで多くの人たちが、詩と音楽をともなう忘れがたいひと時をすごしたのでしょうね。
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窓からの眺め。 いまはごちゃごちゃした新市街が眼下に広がっていますが、当時はvegaの緑がもっと広々と見渡せたことでしょう。
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メガネや書きさしの手紙、あらゆる小間物がそのまま残されています。 アルゼンチンへの渡航の機会に恵まれ、ともかく今は不穏なスペインから離れようと、大急ぎだったのであろう旅立ちのようすがしのばれます。
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左の小さな額は、マヌエル先生が雑誌から切り抜いた、というロッシーニの写真。
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マヌエル先生がアルゼンチンに旅立ったのちも、帰国を心待ちにする友人たちが、家財道具を大切に保管していました。 また周到なスケッチも描かれたので、そのおかげで後年、すべてを元通りに戻すことができたそうです。
スペイン内戦とロルカの銃殺が直接の引き金となり、逃げるようにスペインをあとにしたマヌエル先生も、いつかはこの居心地のよい家へ帰りたいと、願っていたに違いありません。 アルゼンチンに旅立つまぎわ、友人にこう言い残したそうです。 「スペイン人みんなが合意に達したら、私は戻ってくるよ」と。
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Casa Museoのさいごの部屋には、頭文字が入った木製のトランクが飾ってあります。
小柄なマヌエル先生の写真に見送られ、「1939年のグラナダの日々」がそっくりそのまま残された、貴重なお宅を辞去します。
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グラナダで近代芸術散歩をするなら、Garcia Lorca もしくは Manuel de Falla、ということになると思います。 自分たちの小さな不運で手一杯だった私たちは、Garcia Lorcaの大きな悲劇に向き合う気力がなく、マヌエル先生のお宅訪問を選んだのでしたが。
Garcia Lorcaについては、われらがM子さんが共訳なさった大部の本が、白水社から出ています! 『ブニュエル、ロルカ、ダリ―果てしなき謎』 (白水社)
あとがきで、学生時代にグラナダ近郊のロルカ生地を訪問なさったときのことにも、触れていらっしゃいます。
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マヌエル先生のおうちの外で。 クロウタドリ(blackbird)…にしては色が薄いので、雌かな?
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イタリア人のかわいいガイドさんに勧められ、すぐ近くの Carmen de los Martires に行ってみます。 鬱蒼と木々が茂り、そこを孔雀が悠々と散歩する広大なカルメンですが、あまり手入れはよくありません。 でもかえって野趣があって私は好き。アランブラの眺めもすばらしいです。
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敷地の端のほうは雑草園と化していて、アマポーラもたくさん咲いています。 この旅ではほんとうにアマポーラを堪能できました。幸せ。
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かっと日が照りつける真昼の庭園。
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この孔雀、かるがると柵を乗りこえ、崖の下のほうへ飛びおりてしまいました。 けっこう飛ぶものですね。
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よくみると雌もなかなかの美貌の持ち主。
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スペースシャトルと激突した猫に遭遇。
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犬ころのシエスタ。
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アルバイシンに戻ってお散歩継続。絵に使えそうな、秘密めいた窓。
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窓辺の多肉植物園。
これにそっくりな、壁掛け式の植木鉢スタンドを持っています。 そっかあれは、窓辺を模したデザインだったのですね!(今ごろ気づいた)
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家の外を飾る植物は、あまり手をいれすぎない(適度にほったらかしの)ほうが粋だったりしますね。 そのへんのあんばいはほんとむずかしい。
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宿の近くの定食屋さんへ。 地元の人がカウンターにぎっしり座って、カンテホンドのCDを聞きながら一杯やっています。ちょっといい感じ。
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まず冷たいスープ。 この暑さでお酒だとバテるので、いったい何年ぶりでしょう、 fanta naranja を注文。
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いろいろ入っていておいしいフライ。 リマのフライとどこが違うのかな? リマのはたぶん衣が重すぎなんですね。
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小さく見えるけど、ものすごく大きなお皿です。
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flan と budin、どっちがどっちだっけ… たしか budin は、パンや干し果物が入っている右のほう。
え〜、この手の定食屋さんも確かに好きなのですが。 一度くらいはちゃんとしたレストランも行かないと、この旅は食の恨みが残りそうね、という話に……
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丘に沿って這い上がるアルバイシンの家々。 ああすぐそこでも、枇杷がたくさん実っています。
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とても「らしい」ギターの家庭教師の広告。 そういえば、せっかくサクロモンテに泊っているのに、まだ一度もフラメンコを聴きにいってません。
毎晩毎晩、観光客がぎっしり入った洞窟タブラオで、セビジャーナスなんかをちゃらちゃら踊っているのを見ると、どうも入る気になれなくて… へんなものを見るより、名盤CDを聴くほうがいいってこともありますし…
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アルバイシンの肉屋さんの看板。 蹄鉄が馬になっています。
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コカコーラのタイル看板を見るのもずいぶん久しぶり!
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歯科の看板もタイル製。
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グラナダには、北アフリカからの移住者がけっこう多いようです。 この肉屋さんは、おもてに HALAL と大書してあります。 イスラム法にかなった食肉処理をしているお店、ということです。
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パン屋さんで少し買い物。
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宿に戻ってお茶。 スペインではこういうのを leche asada って呼ぶのですね(リマだと雑に作ったプディングのことなんですが)。
スペイン式のは、お米のミルク煮を揚げてあるようです。 形が崩れないように、たぶん粘りの強いクリームを混ぜてあるのかな。
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湿度が低いですから、のどがとても渇きます。 スーパーで売っていたグラナダ(ざくろ)ジュース。 …うーん、ざくろ味、としか言いようのない味。
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夕方7時、再び散歩へ。 同宿のフランス人たちは、いつもこのころテラスに出てきて、ワインやパンを並べ始めます。 今日もでかけないのかなー?
すぐ近くのCarmen de la Victoria、現在はグラナダ大学の宿舎として使われているようですが、自由に入れるというので行ってみます。
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二、三千平方メートルくらいの庭に、いりくんだ散歩道が作られ、コンクリート製のあっさりした噴泉が配され、そのまわりにあらゆる種類の花木や果樹が植えられています。 (この敷石細工ができる人、リマにいないかな〜?)
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ここも借景はアランブラ。いいですねえ。
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小さな小さな、スミレサイズの三色スミレ。ワイルドパンジーかな?
リマには大きなパンジーはありますが、ふつうの可憐なスミレはまったく見かけません。 あ〜ニオイスミレの種とか、密輸したいですね… しちゃおかな、いえいえそんなことは決して…
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ヒイラギの実っていまごろ熟すのですね。 リマにはない色彩にうっとり。
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屋根のテラコッタ色を引き立てる、あざやかな青緑と白の瓦。
ちょうどいいところでポーズをとっているのは、to'rtola turca (シラコバト、Streptopelia decaocto)。 着々と世界征服途上にある鳩で、イベリア半島に到達したのは1960年代とかなり最近らしいです。
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今月は Noches de flamenco などもここで開かれるようです。 こういうお庭でフラメンコを聴いたら、さぞいいでしょうね!! あと一週間残れるといいのだけど…
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すでに夜8時を過ぎましたが、日が少し傾いて涼しくなり、たいへん気持ちがいいので、アルバイシンの丘をどんどん登ってみることにします。 宿六の調査によれば、堀田善衞さんが短期間過ごしたアパートが、丘の頂上にあるはずですし。
いりくんだ坂道を上るにつれて、どんどん見晴らしがよくなってきます。
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坂のあちこちで見かけるのが、イスラム時代から雨水を貯めるのに使われてきた aljibe (地下貯水槽)の取水口。
多くは右のようなレンガ作りで、アルバイシンには三十ほど残っているそうです。 むかしはここから甕をおろして、水を汲んでいたようです。
aljibe という単語は、今回ここに来て覚えました。 もちろんアラビア語起源なのでしょうね。
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「噛む犬注意」 猛犬の横目遣いがいいわ〜
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でも出てきたのは、この犬だったんです。看板に偽りあり。
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門をレンガと漆喰で塗りこめられた異様な教会(iglesia de San Luis)。
『スペイン430日』に出てくる教会です。 本来モスクだったのを教会に改装したものの、祭壇がメッカを向いているので坊主と信徒に嫌われ、結局つぶされた、という… また、「スペイン内戦時に破壊され、その後二度と修理されなかった」という話も聞きましたが、両方とも本当なのかもしれませんね。 どちらにしても、大いにいわくつきの教会。暗くなるとこわいので、ここでの長居は無用…
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さて『スペイン430日』に書かれているとおり、アルバイシンの丘を上りつめたところに、白いアパート群Apartamentos Carmen de Santa Amalia が現れます。 番地からいってもここでまちがいなさそう。
よくぞまあ、こんなところまで登って住む気になられたものです。 (私も高いところは大好きですが、60歳になっても高いところに登りたがる自信は、今すでにないかも) さすがに後年、「70歳になったのでラテン語を始めることにした」と言ってのけた堀田善衞さん。
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丘の上には14世紀の城壁が残っています。
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実にあやしげな、いい感じの雲が湧き出してきました。
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宿から見る優雅なアランブラとは、だいぶ違ってみえます。 「雲の行き来の激しさが一望にのぞまれる」と堀田善衞さんが書いているとおり、上空に雲の渦巻くあらあらしい風景です。 だいたいにおいて繊細な印象のグラナダも、ここから見渡すと、やっぱりスペイン!ですね。
ほんとは遠くにシエラネバダが見えるはず、ですが、雲がかかって、なーんにも見えません。 今年は「雪山」運が最悪で、メキシコではポポカテペトルを、モロッコではアトラスを見逃し、今またグラナダでシエラネバダを見逃しつつあります。
(結局、一週間グラナダにいたのに、タクシーの中からちらっと見ただけで終りました。 空が晴れていても、なぜかシエラネバダのところだけ雲がかかっているのですよね)
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アルバイシンの自然の展望台で、「夜9時のまぶしい夕日」を浴びながら、広々とした景色をしばらく眺めます。ここを訪ねてよかったです。
私のペルー暮らしも、むかし堀田善衞さんやいろいろな芸術家の海外生活にあこがれて、私もいつかそんな暮らしをしてみたい、と思ったのが、たぶん遠い始まりで… ひさしぶりに十代、二十代の自分と再会したような気分です。
もとより、「初心にかえりました」なんて言えるほど、強い意志で始めたペルー暮らしではありませんが、それでも意外に遠い日の夢は、徐々に形になってきているのかもしれないなあ…
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堀田善衞さんのおうちは、眺望絶佳の三階だったそうです。 ここで『スペイン断章』などを書かれたのですね。
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上空の黒雲の下から夕日がさしこむので、黄色がかった光がいっそう映えるような気がします。
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近くのおうちの屋上に、夕日に輝く陶器のざくろ。
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mirlo(クロウタドリ、ツグミの一種)が、大はりきりで美声を響かせています。
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ペンキで落書きされて、アート化している、グラナダ(ざくろ)の形の車止め。
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まっ、最近のいわゆる「アート」の大半は、この程度のものかもしれませんね……
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夕日の中をぷらぷらと下っていきます。 たくさんのカルメンが並ぶ、とても気持ち良い散歩道です。
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9時半に夕焼け。
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夜は、アルバイシンで買ったパンと、茄子のオリーブオイル焼き、ヨーグルトなどで済ませます。 お茄子はちょっと、水気がなさすぎ!でしたけど。なんとか。
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わずか数日の滞在でも、なんとなく通いなれた気分になってきた、サクロモンテの坂道。
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今朝は、ガイドツアーを予約済みなので、早めにアランブラへ向かいます。 La mujer en la Granada andalusi y renacentista (レコンキスタ前後のグラナダの女性たち)というツアーです。
アランブラ宮殿主催のツアーは、現在のところ六種類あります。 これだと並ばずにアランブラに入れますし、公開されていない場所にも案内してもらえるので、お手軽に「特別扱い気分」が味わえてなかなかです。
ガイドはスペイン語または英語。15名限定。事前にネット予約できます。 でも、私たちのスペイン語グループはたったの4人(私たちのほかはセビーリャからのご夫婦のみ)。 このぶんだと、当日でもじゅうぶん申し込めるかもしれません。
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今日のツアーは、伝説も史実もひっくるめ、グラナダの女性と何らかの関わりのあった場所をまわります。 まずは、アランブラ物語で有名な La Torre de las Infantas へ。
サイダ、ソライダ、ソラアイダの三人のお姫様が閉じ込められていた塔、という、いかにも中世好みの伝説がありますが、実話ではないようですね。
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スペイン語ツアーのガイドさんが持っているのは、三姉妹の塔に入るための、大きな鍵。 「いつもは管理人が絶対に手放さず、われわれガイドにすら触れさせないのに、どういうわけか今朝はあっさり渡してくれた!」と喜んでいるところ。
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こちらは英語グループのガイドさん。 「何年もガイドやってるけど、初めて開けさせてもらえる!うひょひょひょひょ」と、ちょっと異常なまでの喜びよう(笑) まあそれだけアランブラは、きちっと管理されている、ということなんでしょうね。スペイン一の人気観光地だものね。
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外はとても日射しが強いのに、塔の中はひんやりしています。あわててウィンドブレーカーを着込みます。 ここは、1400年前後に建てられた、住居を兼ねた見張り塔(torre-palacio)です。
「ナスル朝(1232年〜1492年)の装飾芸術としてはすでに頽廃期に入っており、それが内部のあちこちに見て取れる」 …というのですが、私にはてんでわかりません。じゅうぶん繊細で美しく見えます。
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アランブラは想像以上にあちこち修復されているようですが、この黒と白の美しいalicatado(色タイルを細かく切ってモザイクのように嵌める、アランブラの代表的な装飾のひとつ)はオリジナルだそうです。
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アーチや扉の抱き柱に作られた tacas(壁龕)も、ナスル朝装飾の特徴。 そのまわりにびっしりほどこされた石膏細工には、神とスルタンを称える言葉が記されています。
たとえば上部の丸い円に囲まれた文字は、アランブラ宮殿内のあちこちでくりかえし見かける意匠で、「アッラーにまさるものなし」と書かれているそうです。 また壁龕のまわりには、「神がスルタンをお助け下さいますように」という祈りの言葉が記されているそうです。
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北のヘネラリフェ宮殿に向かって開かれた窓。 ここにも装飾としか見えない文字がびっしり描かれています。
堀田善衞さんがアランブラ研究所の人に、「アラビア語のできないスペイン史の研究者など信用できません!」と言われてしまった、という話を思い出しました。たしかにスペインではそうなのでしょう。
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左の窓のむこうに見えているのは、階段式の畑。 アランブラが、単なる palacio 群ではなく ciudadela だった、という根拠のひとつだそうです。
こういった畑やヘネラリフェ離宮の花壇では、出土する花粉なども調べて、できるだけ本来のアランブラにふさわしい植物を栽培しているそうです。
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日射しがかっと熱くなってきました。
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観光客に疲れた猫さん。 はいはい、私は追っかけないからね、安心してね。
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大きな貯水槽と柱廊が印象的な El Partal
Partal とはふしぎな響き…と思っていましたが、スペイン語のportalがアラビア語化した言葉だそうです。 にゃるほど! アラビア語からスペイン語に入った言葉しかないように思っていましたが、そんなはずはないわけで。
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右手奥にある El Oratorio del Partal(礼拝所)を見せてもらいます。 このツアーでしか入れませんが、すぐほかの観光客も流れ込んでくるので、警備員さんがしきりに気を配っています。
丸いおつむがとてもスペイン的で、人懐っこくて感じの良いこの警備員さん、「あなたはもしかして、アメリカ大陸のほうから来た日本系の人ですか?」と、えらくピンポイントで当ててくれました。あ〜びっくりした…
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礼拝所のmihrab(メッカの方向を示す壁のくぼみ)
ユースフ一世(1333〜1354年)時代の建造物。だそうです。 この装飾の繊細さ、さっきの塔の内部と比べると、私にも出来の違いがわかるような気がしてきました。 窓から入る柔らかい光が、こみいった唐草模様を白く浮かび上がらせ、心を静めて祈るのにはたいへんふさわしい場所のように思います。
もちろんここにも、唐草模様を背景に、コーランにまつわる言葉がぎっしりと刻まれています。 アッラーのほかに勝利者なし。栄光はアッラーのもの。 無頓着な者たちのひとりとなってはならぬ、祈れ。 などなど。
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窓からは、ヘネラリフェ離宮とその向こうのサクロモンテが見えます。 このアーチにも、もちろん祈りを促す言葉がたくさん刻まれているのでしょう。 さわやかな風にのって、コーランが聞こえてきそうです。
マラケシュで日に何度もコーランを聞いたときも思いましたが、永遠について考えさせる言葉が、しじゅう目や耳に入るようになっているのは、とても良いことのような気がします。 そうでもしないと、われわれ人間って、あまりにも目先のことにとらわれがちですから。
でも、壁のどこを見てもお説教、というのもあれかなあ… 少なくとも、幼稚な標語や注意書きだらけの日本よりは、良さそうですが。
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礼拝所の外壁も、とても美しく装飾されています。 こちら側は大きな溜め池なので、光の効果も抜群です。
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さて次は、 Las casas moriscas del Partal (Torre de las Damasにぴったりくっつけて建てられた住居群)。
はたちのとき参加した忙しい団体ツアーは、ここではかろうじて、一枚写真を撮る時間があっただけでした。 いま、入り口に水色の花(たぶんルリマツリ)が咲き初めていますが、そのときは盛夏で満開で、下に立って撮ってもらった写真を長いこと大事にしていました。 たいへん私好みのこじんまりした家なので、中に何があるのかなあと、古い写真を見るたびに思っていました。
(果たして植え込みのルリマツリは、27年前と同じ株でしょうか?)
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そしていま、ついに27年目にして知ることとなりましたが、この家の中には、イスラム圏ではたいへん珍しい壁画があるのだそうです! 保存状態がわるいため、現時点ではこのツアーでしか見ることができません。 (今年は「雪山」運がわるいかわりに、「壁画」運には恵まれているようです)
14世紀前半のもので、1908年に漆喰をはがしたら出てきたそうです。見つけた人は嬉しかったでしょうね〜 上部には大勢の人物画、下のほうはレンガを模した壁画。 たいへん入り組んだ美しい書体で、コーランの言葉も描かれています。
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細かに描きこまれた、騎馬の凛々しい男たち。間近で見ることができたのは、とても幸せ! 石膏の上に、卵の黄身で作った絵の具で描いたテンペラ画です。 もし前世なんてものがあるとしたら、私もこんな筆づかい、色づかいの絵を描いていたかも…
具象画が描かれている、ということは、ここが「ごく内輪の空間」だったことを示しているそうです。 別に人物画がコーランで禁じられているわけではありませんが、当時、習慣的にそういう絵は描かないことになっていたため、アルアンダルスでは他に例をみないそうです。
この壁画のおかげで、当時アランブラにいた人々の姿を、ずっと想像しやすくなりました!
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こちらは、さらに珍しい女性像。 ひざをついて座っている?ように見えます。
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騎馬の男性と、そのうしろには駱駝の長い頸。 駱駝の上に座る女性も描かれているそうですが、破損が激しくわかりませんでした。
そういえばわりとさいきん、駱駝に乗りましたねえ…(遠い目)
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次は、かつての墓所、La Rauda。アランブラ内に墓地もあるとは!
ここもふつうは立ち入り禁止ですが、ガイドさんが大きな植木鉢をちょっと動かし、入らせてくれます。 当時のしかるべき身分の女性は、ほとんど外出の機会はなく、埋葬のときも専門の泣き女以外、立ちあうことはなかったそうです。
raudaとは庭園の意で、庭と墓地を兼ねた、自然を取り込んだ霊園のようなものだったのだろう、とのこと。 大理石の墓碑銘は、今はアランブラ内の博物館におさめられています。
この墓所に葬られていたスルタンたちは、アランブラがキリスト教徒の手に落ちたとき、掘り出す許可が子孫たちに与えられ、その後ロバの背に揺られゆられて、アルプハラ山地のいずこかへと運び去られた……といわれています。 今もスルタンたちは、グラナダ近くの山中でひっそりと眠っているのでしょうか。
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Peinador de la Reina から見る Torre de Comares
次いで、同じく入場が制限されている、王妃の化粧室、Peinador de la Reina へ。 このツアー本当に贅沢です…
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レコンキスタのあと、1539〜1546年ごろ、カルロス五世(スペイン国王カルロス一世)の命で、こってこてのルネサンス趣味に改装されてしまった塔です。 イタリアのラファエロ・サンティの弟子たちが、このフレスコ画を描いたそうです。
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その中に、「旧世界で描かれたさいしょのトウモロコシの絵のひとつ」というのがあります。 トウモロコシは、1492年にコロンブスがカリブ諸島で見つけたのち、急速にヨーロッパに広まったそうなので、この絵が描かれたころにはかなり身近な作物となっていたのでしょう。
知っていたらもっと大きく撮ったんですけど。でもかろうじて写っていて良かった…
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いかにもカルロス五世好みの、船隊の図。 剥落や落書きで傷んでいますが、これは「チュニス攻略の図」だそうです。
イスラム教徒のスペイン最後の砦だったアランブラに、北アフリカとの戦争画を描くとは… あまりにわかり易すぎるその心理!
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ほかの壁にも、無数の帆船や地中海の主要港が描かれています。
これらが描かれたころには、制海権はオスマン帝国が握っていたはずですが、「遠からず落としまえをつけてやる」という思いで、こんな画題を選んだのでしょうか? その執念が、息子のフェリペ二世の「レパントの海戦」につながっていく、ということなんでしょうか…
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塔の天井も、ルネサンス趣味でこってりと塗りこめられています。
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アランブラにイスラム教徒たちがほどこした、完璧すぎる装飾と比べると、どうしても幼稚な印象を受けてしまいます。 でもそれはそれとして、この鳥尽くしの天井はかわいいですね。
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塔からのアルバイシンとサクロモンテ。
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望遠で宿のほうを眺めると… よく見えます。矢印のところが私たちの部屋です。 同宿のみなさんは、今日も宿からぜんぜん出ないで、のんびりテラスでくつろいでいるようですね。
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さて次はアランブラを出て、ダーロ川沿いにある El Banhuelo (11世紀のハンマーム跡)へ。
グラナダでいちばん古く、当時もっとも設備が充実していたという公衆風呂です。スーパー銭湯? イスラムスペイン時代、女性たちに許された数少ない外出先のひとつが、こういう公共の蒸し風呂だったそうです。
パンフレットによると、アラブ式の蒸し風呂は、基本はローマ〜ビザンチン時代の公衆浴場のまねなんだとか。 ここでは向かいのダーロ川の水をくみ上げ、薪で沸かし、その蒸気をお風呂と床暖房に使っていたそうです。 なかなかのハイテク構造です。
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当時こういったお風呂は、賑やかな社交場であると同時に、心身ともに清めるためのほとんど「宗教的」と言ってよい意味を持っていたそうです。 しかしレコンキスタ後は、このハンマームも存在理由を失い、長らく公共洗濯場と化していたそうです。
なにしろ当時のカトリック教徒は、風呂好きムスリムからの改宗者ではないことを証明するため、できるだけ長いこと身体を洗わないのを誇るような人々でしたから、お風呂屋さんがつぶれるのも無理はありません。 そのころのスペインにだけは生まれたくないですね…
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蒸気抜きと明かり取りをかねる、この星型の窓がいいなあ。 当時は色ガラスを嵌めてあったそうです! どんな色だったのでしょうね。
逆光のおかげで、むかし蒸気がたちこめていたころの様子が、ふと見えたような気がします…
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すでに正午をまわり、9時半からずっと見学しているので、おなかもすきましたが、まだまだツアーは終りません。 私はすでに壁画で満腹、あとはあまり記憶がないのですが、蒸し風呂ののち La casa morisca de la calle Horno de oro、それからさらにアルバイシンに登って El convento de Santa Isabel La Realに行った…ように思います。
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アルバイシンの、イスラム風に凝ったおうち。 Carmen del Granizo(雹霰のカルメン)という名前がまたいいですね。
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女子修道院の El convento de Santa Isabel La Realでは、まったく写真を撮れないのが残念でした。 修道女のそれぞれが、小さな服を縫って着飾らせた、幼子イエスの人形がたくさんありました。 その習慣がはるばるクスコやリマにも伝わったのですね…
写真は、修道院でわけてもらったお菓子。 修道女の顔が見えないように、回転式の扉ごしに買います。 ケミカルなものが何も入っていない、正しくおいしいお菓子です。
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やっと2時過ぎに、アルバイシンで解散。 ほんとに中身のつまったおもしろいツアーでした。もう、おなかぺこぺこ。
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そこで、『スペイン430日』に何度か出てくるクニーニ、こと Cunini へ行ってみることに。
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内装は今風でつまらないですが、このショーケースを見る限り、「当たり」の予感が。 スペインでおいしいものったら、これでしょうやっぱり! (アンダルシアのグラナダで、なぜにガリシアの魚介類を?…という質問は受け付けません)
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さっと茹でた小えび(quisquillas) 卵を抱えたえびちゃん多数。ますます高まるコレステロール。
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冷たいアルバリーニョ(ガリシア地方の白ワイン)に、ものすごくぴったり。 小えびはジャガイモサラダといっしょに食べるもの、なんだそうですが、そんなもの食べてるときじゃないです! ジャガイモ好きなインカ人(宿六)も、小えびを前にしては、ぜんぜん手を出さないのが笑えます。
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生牡蠣と、やはり生の大はまぐり(ostras y almejas del norte)。
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さらにえび(quisquillas y gambas)。こちらは塩焼き。
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さらにえび。オリーブオイルで「煮」た、例の gambas al pil-pil
どういうわけかリマでは、こういう小えび、見ないんですよね。 langostinoと呼ばれる大きなのばっかり。今度もうすこし市場で調べてみよう…
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丸いお菓子はグラナダの伝統菓子、piononoというそうです。 薄い生地を巻いた上に、カスタードクリームをのせて、ちょっと焼いてあります。
…そうかペルーのピオノノのご先祖は、グラナダ生まれだったのですね!
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「ピオノノ勝負」では、ペルー(特にカハマルカ)の圧勝。 これだけは、ぜったいペルーのピオノノ(卵たっぷりの生地で作ったロールケーキ)のほうがおいしいです。 まあ店は選ばないとだめですけど…
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のんびり5時まで食事を楽しみ、外に出るとこの青空。 五月のグラナダはほんと天国ですね。
大聖堂は今回は素通りすることにします。 フェルナンドとイサベルの仲わるそうなお墓におまいりするのも、なんとなーく縁起わるいですし…やめとこう。
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えびを消化するため、新市街を少し散歩。 デパ地下で、パックの茹で栗やメイプルシロップを買い込みました。 (スペインよりカナダのほうがリマに近いと思うのですが、なぜかペルーではメイプルシロップ売ってないのです)
そうそう、高級食品コーナーには、ペルー産のポテトチップス(マラスの塩味)が麗々しく飾られていました、ちょっとびっくり。
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サクロモンテの夜の猫。
さてご苦労さんにも、夜9時半、ふたたび宿を出てアランブラへ向かいます。
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今夜は宮殿 los Palacios Nazari'es の夜間見学です。 アルバイシンの夜景、ほどよい明るさできれいです。
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イスラムの七つの天国を表したという、すばらしい木の天井も、夜こうして仰ぐといっそう星空らしく見えますね。
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貯水池の上をわたる風が、とても冷たいです。
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ひとつ非常に残念なのは、Patio de los Leonesが、よりによって、いまちょうど修復作業中だということ。
「ライオンの中庭」の水盤や、十字に切られた水路の水がきらきら光って、鍾乳石細工にうつる風情がすばらしく、まさにそれを宿六に見せたくてグラナダに来たのですが〜〜! (ついでに申しますと、宿六はかつて、ドラえもんで日本語基礎会話を覚えた、ということもあり)
いつからまた公開されるのか、ガイドさんにたずねても、「神のみぞ知る。もし神様が望まれるなら来年……かもしれません」という調子で、急にイスラムスペインに戻っちゃうから困ります。
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2011年現在、ドラえ…じゃなくて中庭のライオンたちは、無残なまでに真白に洗い上げられ、別室に飾ってあります。 これも大ショック。
撮影禁止なのでポスターを載せておきますが、どっちにしてもあんな白ライオン、撮りたくなんかありません。 漂白剤に漬け込んだような、ぜったいちょっと削りすぎたでしょ?という白さなんですもん。
むかしフィレンツェのボッティチェリの洗いすぎにも、腰を抜かしましたが、たぶん古色という感覚はないのでしょうね……(とはいえ日本人の古色好みも、ついてけないことがままありますし、こういうことになると中庸ってないものだなあ)
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夜はさすがにおなかいっぱい。 スーパーで買ったパック入りのガスパチョ(認めたくないが意外においしい…)、パン、さくらんぼなどで済ませました。
近年まれに見る高充実度の一日でした。おやすみなさい。
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<白ライオンその後>
ライオンの中庭では、2012年5月15日に床石を敷き始め、「二ヶ月で作業が終わる予定」とのニュースを読みました。 と、いうことは、スペインであることを勘定に入れても、2013年後半なら確実に公開されるかな?(笑) そのあと適度に汚れるのに二年かかるとして、2015、6年あたりに行けばちょうどいいでしょうか。
アランブラは今生の見納めのつもりだったのですが、白ライオンのせいでもう一度行かないとなりません…
(http://www.andalucia.org/より無断で拝借。また行きますから許してください)
再公開時にはこうなるらしいです… 床も真白、ライオンも作りたてのようで、モロッコの新築高級コンドミニアム、という感じですね。 本当にいいのだろうかこれで?
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朝ごはん。 (なぜか先日のお寿司の残りのお醤油が… 宿六がサラダに足していました)
とうとうグラナダ滞在最終日となってしまいました。
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またもアランブラへ。 ほんとにここは、どこにレンズ向けてもきれいですね。われわれ含む観光客は別として。
今日はふつうの入場チケットで、全体をのんびり見るつもりです。
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銀梅花の中庭 El Patio de los Arrayanes は、今日もツバメだらけ。
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貯水池の中も飛び交うツバメ。 水に映っているのがTorre de Comares
comaresの意味には諸説あるようですが、どうも色ガラス細工に関係があるようですね。
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…しかし気になるのが、すばらしい石膏細工のすきまに、ツバメや小鳥が巣食っているように見えること。 いいのかな、ほっといても…
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あ〜やっぱり。イエスズメ(ヨーロッパのスズメ)のご夫婦が子育て中です。
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いまさら名所中の名所の写真をいくら撮ってもしかたないので、細部をじっくり見ることにします。
壁のmoca'rabes(鍾乳石細工)は、よく見るとあちこちに青や金色の彩色が残っています。 きれいな模様にしか見えませんが、こういうところにまで神を称える言葉が記されていることもあるようです。
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中央に「アッラーのほかに勝利者なし」、その下に「神の祝福」と記されています。
「アッラーのほかに勝利者なし」はナスル朝の標語(el lema nazari')で、アランブラ内にはさまざまな形で無数に刻まれています。 あまりに多いので、しまいには見慣れてしまって、読めなくてもそれとわかるようになりました(笑)
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唐草模様の ataurique (浮き彫り)の、なんと種類豊富なこと…
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ここではナスル朝のモットーが、紋章(標章)にななめに書きこまれています。
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細かなものに目を凝らしたあとは、例の記念撮影スポットの柱廊から、いろんなお宅の空中庭園をちょっと覗いてみましょう。
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雨が降る街では、瓦の色が品良く古びていっていいなあ。 まともな雨が降らないリマだと、砂ボコリが積もっちゃうんですよね。
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アルバイシンの丘の斜面に建てられた家々。 あちこちに気持ちよさそうな夕涼みスペースがあります。
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段差のある小さなテラスに、彫刻を置いたり、船の絵タイルを飾ったり。 洗濯物までうまく絵の一部にしてしまうのは、ヨーロッパ人の得意技ですね。 (なぜかそういうの、日本人やアジア人一般、それにペルー人はだめなんだなあ…)
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まるでインテリア雑誌の撮影用みたいに、果物がテーブルに置かれています。 屋根のはざまのわずかな空間でも、景色が美しければ、じゅうぶん楽しめるのでしょうね。
そのへんリマは… 海か大公園にでも面していない限り、ほんとにきれいな眺めを得たいと思ったら、閉じた空間を作るほかありません。 まあ東京も同様ですが、どこかに必ず美しくないものが見えてしまうので。
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これはルーフガーデンではなく、立派なお庭のようです
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あれ? ふつうの庭が、そのまま下の建物の屋上につながっているようです。 傾斜地の住宅街ならではですね。
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この草木の茂りぐあい、すばらしい。
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リマだったら確実に不用品置き場になりそうな、狭い屋上。 ここもたくさんの草花と椅子とで、ちょっとした庭になっています。 上のテラスの洗濯桶までいい感じ。
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おととい訪ねた堀田善衞さんの旧宅も遠くに見えます。 すぐうしろに別の建物が見えて、あれれれ?あんなのあったけ?…たぶん望遠レンズマジックですね。
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さてわが仮の宿を眺めると… ふふふふ、きょうも同宿者たちは、みなさんテラスでのんびりしているようです。 よく飽きないな…と思うけど、むこうはむこうで、私たちの落ち着きのなさに呆れているかもしれませんね。
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真昼の暑いアルカサバ。 (アランブラを守る要塞)
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北アフリカからの旅行者をよく見かけます。(そりゃ近いものね) やはりアランブラに本当に似合うのは、赤ら顔の欧米人でも、妙に素足を露出したがる韓国娘でもなく、こういう姿の女性たちですね。
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以前来たときは、見栄えのする宮殿だけを駆け足でまわったので、アランブラ=中庭のある宮殿、と思い込んでいました。 でも今回は、破壊されたmedina(一般の人々の住まいがあったところ)や墓地、畑、alcazaba(要塞)などもゆっくり眺めて、すっかりアランブラの印象が変わりました。
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六月中旬から始まる音楽祭に向けて、整備が進んでいるらしい野外劇場。 白ライオンのせいでまた来なくちゃいけないから、次は音楽祭を狙おうかな?
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六月に入り、美しかった五月の薔薇もそろそろ終わりのようです。
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こういう庭がほしいけど…私のものぐさでは………
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ヘネラリフェ離宮は、花壇の植え替え作業中。
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植木職人として、ちょっとこれ以上はない職場でしょうね!
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スペインの中でもグラナダ、というかアランブラは最高に人気のある観光地。 さすがにすみずみまで美しく手入れされています。 町でタクシー運転手さんの話を聞いても、いつも大勢の観光客がやって来るので、この街ばかりは不況知らずのようです。
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どんどん暑くなってきましたが、水音のおかげでほっとします。
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みごとなマグノリアの大樹。
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藤の花を見るのも何年ぶりでしょう。
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えもいわれない色の薔薇…
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さ〜て今日の楽しみのひとつが、アランブラ内にあるパラドールでの昼食でしたが… すがすがしいほどの、大はずれ!
すべて療養食のように味がなく、特に野菜は徹底的に煮殺してあります。
「お皿に絵が描いてあったり、無意味に3Dすぎる盛りつけの料理に、本当においしいものがあったためしがない」と、つねづね思っておりましたが、スペインでもその法則は当てはまるようですね。
むかしパラドールの大盛り定食で、大いに楽しんだ思い出がいっぱいありますが、どうしちゃったのかな。 材料をいじくりまわしてちょっとだけ盛り付ければ高級、というものではないと思うのですが。
ペルーでは、近年この手の「シェフの自己満料理」が多すぎます。 まさかスペインでも出くわすとは。とても残念。
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ワインとパンと、きちんとトンカチで叩いてから漬け込んであるオリーブは、おいしかったです。 あとはほとんど残したので、さすがに店のほうも、メイン二品は請求書からはずしてきました。
…ああでもこれで、今夜はもう一度 Cunini へ行く「おなかの余裕」ができた、と、実はちょっと嬉しくもあった私たち……
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むかし来たときも写したおぼえのある郵便ポスト。
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たしか当時は、ここが唯一の売店だったのですよね、昔の小学校の「購買部」みたいな、小さな間口の…
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そのときは、この Puerta de la Justicia から観光が始まったような覚えがあります。 今はヘネラリフェ寄りに総合案内所ができて便利ですが、やっぱり本当は門をくぐって入るほうが、城塞宮殿都市を訪ねる実感があるでしょうね。
さあ、このあとは宿に戻って荷作りです。 (宿六のほうは夜まで仕事をし、この日、クビ宣告後さいしょの商談成立とあいなりました。なかなかめでたし!)
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「さあさあ、ずずいっと奥へ!鴨さんカモン!」
夜9時、またCuniniへ。
今夜は入り口にあるbarで、軽くつまんですませるつもりでしたが、きのうのウェイターさんにたちまちつかまり、奥の席へ連行されてしまいます。 いいカモです。でもこういう店で、たま〜にカモになるのは、決して嫌いじゃないです…
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この壜のデザインかなり好き。 (帰路、空港で一本買いました、飲んだあと花瓶にしています)
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Ne'cora 猫ら…ではなく、小さくて身が少ないけれど、とても味のある蟹。
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Navajas(マテ貝)
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堀田善衞さんもお好きだったらしい percebes(エボシガイ)
…まあその、昼のパラドールのシェフなんかに言わせれば、「この野蛮なのが料理か?」ってことかもしれませんね、塩茹でしただけだものね。 でも私は、料理にはぜったい野蛮さが必要と思います!
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Centollo ヨーロッパケアシガニ
これはカレー風味が強く(野蛮度も低く)いまひとつ。 でも宿六が喜んで平らげたので良しとします。 次(数年後?)はもっとあっさりした調理法で出してもらおうっと。
(ペルー近海にもよく似た蟹がいて、リマにそのまんま Centolla という蟹専門店がありますが、日本人が行ってはいけない店ナンバーワンです。どうしたらあそこまで蟹を殺せるかという……… また、偶然にも Cunini がある通りと同名のレストラン La Pescaderia というのもありますが、これまた似たりよったりのガッカリ料理店。
ペルーに帰国後、Cuniniが懐かしくて海鮮料理店を探し続けておるのですが、Chez Eladio も悲惨だったしなあ… 今のところハズレばかりです。 よい材料は手に入るので、家で料理するに限る(それしかない)ようです。 結局、たどり着くのはつねに同じ結論…
すみません、ここには関係ないグチでした)
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Gambas al pil-pil
もうこれ以上はむり、と思ったのですが… しばらく小えびとはお別れなので、どうしても直接さよならが言いたくて… ウェイターさんにも、まさかもう一品いけるとは思わなかった、と褒められ?ました。
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その上デザートまでいってしまいました。 名前がまたいいのです、シエラネバダ(Sierra Nevada)、グラナダの夕暮れ(atardecer de Granada)、グラナダさいごのスルタン、ボアブディルの涙(lagrima de Boabdil)、という三種の焼き菓子です。
やっとここで、シエラネバダの白い峰をじっくり眺めることができました…
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おまけ。
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動けないほどしっかり食事をしましたが、それでもなお未練たっぷり…… 白ライオンのこともあるし、まあここにはまた来ることでしょう。
もしpacollamaさんcalleretiroさんが、『スペイン430日』を手荷物にして下さってなかったら、この店にも気づかず、食事についてはぜんぜんぱっとしない旅になっていたろうと思います。 おかげさまで大満足! 良質のコレステロールをたっぷり摂取して、今ならちょっとすごい絵が描けるかも(笑)
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アルバリーニョですっかり出来上がっていたので、調子にのっててくてく歩き、日付が変わってからのご帰館です。 やっと横になったのは明け方2時だったでしょうか。
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…で、朝5時にはもうお迎えのタクシーがやってきます。
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マヌエル先生のおうちにいったとき、たまたま拾った「タクシー・メルセデス」(その名のとおり小型のメルセデス)。 運転手のIva'nさんが、物静かで非常〜に感じの良い人だったので、今朝のお迎えもお願いしました。
制限ぎりぎりまで詰め込んだスーツケース四個を、軽々と運びおろしてくれて大助かり。 次にグラナダに来るときは、ぜひまた連絡してみようと思います。
近郊のドライブをお願いするのも楽しそうです。
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朝7時の便でマドリードへ。 イベリアさん、今度は飛ぶんですね……
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8時にマドリード着。なんとなくCGぽい空。
ここでカリ(コロンビア)行き便に乗りかえます。 ボーディングブリッジを渡っていくと、途中にベビーカーが山のように積み上げてあり(軽く1ダース以上はあったかと…)、失礼ながらこちらは真っ蒼… ラテン系のお母さんって、たいてい泣きたい放題に泣かせる教育方針ですからね…
でも幸い、子連れ客はみなさん、乗降の楽な前方に席をもらっており、うしろに座った私たちは安泰でした。やれやれ…
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まだ帰りたくないなあ。 某アジノモトペルーが、休暇前日ではなく、せめて一ヶ月前にクビを宣告して下さっていれば、チケットを変更してあと一週間くらいスペインにいても、ぜんぜんよかったのです。 来週は、ただ辞めるために出社しなくてはならず、そのための帰国です。あほらし。
もちろん、それが時間を切り売りするサラリーマンの宿命ですから、しかたないのですが。
しかし大会社の日本人もこれからは、相手が何国人であっても、同じ人として最低限の敬意と思いやりをもって向き合う、ということを少しは身につけないと、将来どこの国からも相手にされず、困ることになるのでは…と心配です。 本当に落ち目になってからでは、遅いのですよ…
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この大きな川は… テージョ川! リスボン!
ファド、ヴィーニョ・ベルデ、アジの開きと豆スープ、それからイワシの炭火焼き! 私ここで降りたい!
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ここに地 尽き 海はじまる Onde a terra se acaba e o mar comeca
(Luis Vaz de Camoes)
途中下車はかないませんでしたが、ちょうどCabo da Roca(ユーラシア大陸最西端の岬)の上を通ってくれました。 むかしせっかく突端まで行ったのに、霧でなんにも(海面のきれはしすら)見えなかったのですよね。
今日は快晴。 いま岬にいる人たちは、カモメも青く染まりそうな大西洋の青を堪能していることでしょう!
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カモンイスのことばどおり、あとはただただ、膨大な水たまり…
コロンビアのカリは、熱帯性の大雨の只中でした。 きっと住人も、あったかい人が多いのでしょうね。 着陸時にはどっと拍手が湧き上がり、そのあとはみな口々に、「早く扉あけてくれ〜、でないとうちの母ちゃんのサンコチョが冷めちゃうよ!わははは!」と大騒ぎ(サンコチョはコロンビア名物のシチュー)。 ベビーカーのお客さんも、全員カリで降りました(笑)
次のボゴタは都会なので、みんなもっと冷ややかです。 ここでまた飛行機の乗り換えです。
マドリードでボゴタ行きの列に並んだときは、いかにもラテンアメリカ〜な、正直申してかなりあやしい風体の人が多く(レゲトン歌手風のお兄さん多数)、少々引き気味でしたが、ここでまた乗客の顔ぶれがガラっとかわります。 わるく言えばさらに田舎風に、よく言えばよりモンゴロイド色が強くなり、懐かしいアンデスの気配が濃厚に。 やっとわが家が近づいてきたなあ。 猫たちどうしているかなあ?(もちろん毎晩スカイプで安否確認しておりましたが…)。
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かくて各駅停車の長い旅も、やっと終着駅に。翼よあれがリマの灯だ。 海霧で、もわっと滲むこのオレンジ色、リマの冬の色ですねえ。
し・か・し。ここで最終トラブル発生!! 深夜の空港で待てど暮らせど、サハラの砂その他の詰まったスーツケースは出てきません。 まさかのロストバゲッジでした…人生初体験……(こんなオチ、もういやだ!)
まあその、旅はもう終ったし、手ぶらで家に帰るのも楽でわるくはないのですが… 気の毒だったのは、もう一組のロスバゲ被害者。 この寒空のリマに、極端な薄着とわずかな手荷物で到着した、フランスの若い二人連れです。
セントロの安宿に泊るそうですが、……うーん、想像するだに寒い。 「航空会社は毛布くらいあげればいいのに!」と怒る宿六。まったく同感です。
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そして明け方2時、やっとロストバゲッジの申告を終え、通関のすぐ外にあるカフェテリアに寄ると…
おまわりさんや大勢の警備員がつめかけて、なにやら騒然とした空気。 なにごとか、と思ったら…
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……こういうことでした。いつものサッカー。なるほど。
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どーん! やはりペルーは盛りがちがいます。
このカフェのサラダは、野菜がとても新鮮で(明け方の注文でも新鮮でした!)、お肉の焼き加減とかもへんに上手で、さいきん気に入っています。 急いでうちに帰ったところで、かわいそうな猫番君を未明に叩き起こすだけだし、冷蔵庫もからっぽだし。 ゆっくり食事をしてからタクシーを拾うことにします。
そして、霧でまっしろな道を走って、朝4時にわが家へ。 猫たちが大興奮で迎えてくれました。(かわいそうな猫番君は、いずれにしても叩き起こされる運命でした)
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夜行バス事件・ロストバゲッジ事件・濡れねずみ事件を生き延びた、モロッコの宝石箱。 (立派な箱は嬉しいけど、どうも入れるものがないなあ〜)
…しかし、そうなんです、まだあったのです、本当の最終トラブルが。
翌日夜に配達された、大小四つのスーツケース。 それが、笑っちゃうくらいの濡れねずみで…… ついでに古いスーツケースの車輪もこわれていました。
たぶんカリで、まちがって滑走路に引き出され、そこで熱帯性の大雨にぬれたのでは……と想像。 衣類は洗濯すればいいですが、買い込んだ本が濡れてしわしわになったのがとても残念です。
でも、コロンビアの航空会社 AVIANCA の対応は、迅速でした。 翌日すぐスーツケースを引き取りに来て、数日後には車輪をつけかえたのが戻ってきました。 またお詫び金も(先方の言うとおり「気持ち程度」ながら)すぐに振り込まれ、電話やメールでも終始ていねいな対応だったので、わるい印象は残りませんでした。
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箱の中はこんな感じ。 thuya(Tetraclinis articulata)という木の堅い根を細工したもの。 ヒノキの仲間なので、ふたをあけるたびに、良い香りがします。
それにつけても、スペインのIBERIA航空の対応と、なんたる違い! IBERIA便が夜行バスに振り替えられた件では、ついに苦情メールへの返信すらなかったのですから。
やっぱりヨーロッパの時代は、終りかけているのかなあ…… 願わくば、同じ終るにしても、せめてじわじわと時間をかけて……… あっ、いえっ、そんなことないですね、考えてみればスペインって、昔からそういう国でしたよね!
たぶんスペインの残光は、何があろうと、まだまだ当分しぶとく輝きつづけることでしょう、いろんな意味で。 私も、白ライオンが灰色になるころを見計らって、ぜひまた行こうと思います。
これにてモロッコ・スペインの旅は、やっとおしまい。 長々とおつきあい下さって、ありがとうございました!
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